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【海外旅行体験記①】スタントラベルのWORLDブログ『旧ユーゴスラビアの国々の旅』

  • 更新日:2021年12月24日
  • カテゴリ:体験レポート

海外旅行のエキスパート:スタントラベルのワールドブログ

皆さん、こんにちは、スタントラベル旅のアドバイザーです。
今回は、前から行きたかった“旧ユーゴスラビア”の国々に行ってまいりました。

さて、旧ユーゴスラビア ・・・ 皆さんどのあたりの国か解かりますか? 日本でも有名な人を輩出しています!
サッカー日本代表の監督を務めたオシムさんは、ユーゴスラビア代表監督でもありましたし、また、名古屋グランパスで大活躍したストイコビッチ選手/監督もユーゴスラビア代表の主将でした! 加えてハリルホジッチ元監督もボスニア・ヘルツェゴビナ出身ですヨ!そんな旧ユーゴスラビアですが、最近では“紛争”とういう暗いイメージが非常に強いのではないでしょうか?

先ずは僭越ながら、そんな旧ユーゴスラビアについてご案内です ・・・
この地域は昔から“世界の火薬庫”と言われるくらい紛争の絶えないエリアでした。そんな、言わば収拾のつかない地域を、第二次大戦後に「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」としてまとめ上げたのが、有名なチトー元帥(大統領)です。

このチトー大統領の存命中は、六つの共和国と二つの自治州からなる一つの“連邦国家”としてまとまっていました。ただ、当時から「七つの国境、六つの国家、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字」を持つ国として、非~常~に複雑な内情でした。我々日本人にはとても理解できないような状況ですネ!?

そんな、唯一の求心力として機能していたチトー大統領が1980年に死去すると、案の定バラバラになってしまいます。1991年から2000年に掛けて4回の血みどろの紛争が勃発し、2006年に正式にこの連邦国家は消滅してしまいました。

大まかに要約すると「独立を望んだ国」vs「連邦国家を維持していたいセルビア」という構図になります。今回はそんな「セルビア」をはじめ、独立を果たした「ボスニア・ヘルツェゴビナ」そして「クロアチア」を訪問します!

【1日目】いざ、出発!日本⇒ドイツ⇒セルビア首都ベオグラードへ

2017年6月8日(木)成田空港から“日の丸の翼”JAL(日本航空)でドイツのフランクフルトへ出発です。

フランクフルトでエアセルビアに同日乗継ぎでセルビアの首都ベオグラードまで搭乗するので、通常はスルーチェックイン(成田で2区間同時に搭乗手続き)が可能です。但し、成田のJAL職員曰く「エアセルビアはあまり信用できないので、フランクフルトで再度手続きをした方が良いですヨ!」。そうだろうなぁ~、なんせ“エアセルビア”だもんなぁ~とへんに納得してしまいました。期待通りJALのフライトは快適そのもの、約12時間の楽しいフライトとなりました。

そして、フランクフルトで“うわさ”のエアセルビアに乗継ぎです。因みにエアセルビアですが「世界で最も信頼されている航空会社ランキング」80社のうち、なんと69位〔因みに1位=ANA、JAL=3位〕です ・・・ そんなエアセルビアで所要約1時間50分、(以外に?)無事にセルビアの首都ベオグラードに到着しました。

セルビア共和国 ・・・ 国土は北海道とほぼ同じで、人口は約710万人、通貨はディナール。旧ユーゴスラビアの首都もここセルビア共和国のベオグラードだったこともあり、旧ユーゴスラビアでは中心的な存在でした。スラブ系民族ということで、ロシア(ソ連)とも通じていることが多く、軍事力も旧ユーゴスラビアの中では突出していました。ということで、西側諸国と対峙することが多く、何故か?“悪役”というイメージが強いですネ!?

なので、私もプロレス界で言う“ヒール(悪役)”の「ブッチャー」や「ザ・シーク」のような人々(国)をイメージしていたんですが、航空機内のCAやベオグラード空港の職員も至って親切でした。ベオグラード空港到着が午後10時。夜遅いということもあり、ケチな旅のアドバイザーとしては珍しく市内まではタクシーを利用します。噂通り、ぼったくりタクシーの運転手がたむろしているので、“Taxi Info”でチケットを入手して正規タクシーを利用しました。所要約20分、料金は1800ディナール(約¥1,800)でした。

とういうことで、今回の旅の最初のホテルは「Belgrade City Hotel」。少々古いですが、立地も良く、親切な受付のオバちゃんが流暢な英語で対応してくれて、なかなかお薦めのホテルでした。長~い1日で少々疲れました。お休みなさい ・・・

【2日目】ベオグラード市内観光⇒ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボへ

翌朝、目が覚めると真っ青な快晴 ・・・ やはり“晴れ男”です。ベオグラード(英語名:Belgrade)はサヴァ川とドナウ川の合流点に開けた街で人口約160万人。旧ユーゴスラビアでも最大の都市です。2000年以上の歴史を持ち、欧州らしい雰囲気の街並みです。街の中心「クネズ・ミハイロヴァ通り」はお洒落なショップが並ぶ歩行者天国です。ただ、街のあちこちには崩壊したビルの残骸が ・・・

これらが有名な“NATO空爆ビル”です。因みに横長の写真のビルは旧ユーゴスラビア軍国防省だったビルです。1999年春のNATO(北大西洋条約機構)軍の空爆(制裁)によりこのような無残な姿となってしまいました。

次は、ベオグラード要塞。ベオグラード市民の憩いの場カレメグダン公園の中にあり、ここから市街が一望できます。ベオグラードの名前の意味は「白い街」、“白”というよりは“灰色”の方が近いと感じていたのですが、この要塞が遠くから見ると白く見えたことから“ベオグラード(白い町)”と呼ばれるようになったそうです。

要塞内では第一次世界大戦以降に使用された戦車や大砲も展示されています。現在の要塞は18世紀頃から造られたそうで、現在までに約140回ほど戦いの場になったとのことです。

さて、ベオグラード市内観光を終え、次はボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボへ向かいます。搭乗する航空会社は、またしてもエアセルビア ・・・ 国際線ですが所要時間は僅か55分、使用機材はATR72(プロペラ機)です。今回のエアセルビア便もほぼ定刻で無事にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボに到着。

ボスニア・ヘルツェゴビナ ・・・
面積は九州と四国を併せた程度で、人口は約380万人、通貨はマルカ。1992年にユーゴスラビア連邦から独立しました。ただ、独立の過程ではそれこそ血みどろの紛争が起き、そして多くの血が流れてしまいました。そのことについては後述するとして“サラエボ”と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?

そうですネ!やはり“サラエボ事件”でしょう! 写真のラテン橋の上でその事件は起きました。
1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、このラテン橋の上でセルビア人の青年に暗殺されてしまいます。この事件が引き金となってオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告 → 第一次世界大戦へと繋がっていくのです。

では“サラエボ”で、次に思い浮かぶのはなんでしょうか? そう、私のようなオッさん世代なら“サラエボオリンピック”ではないでしょうか? 1984年2月に開催された第14回冬季オリンピックです。このオリンピックの時点ではユーゴスラビア連邦国家は健在でユーゴスラビア選手団として参加しています。また、日本選手団では北沢選手がスピードスケートでこの大会唯一のメダル(銀)を獲得しています。

そんなサラエボオリンピックのメインスタジアムを見学に行くと、残念ながら廃墟のようになっていました。それどころか、紛争の最中には戦死者を葬る墓地と化していたそうです。平和の祭典のシンボルがそんなことになるなんて ・・・ ホントに悲し過ぎますネ!?

サラエボ市内観光

さて、気を取り直してサラエボ市内観光に出掛けます ・・・移動の際の足は便利なトラム、市内のあちこちを網羅しています。

旧市街の中心は“バシュチャルシヤ”。有名な水飲み場の周りは実に国際色豊か! 辺りもお洒落なショップ等で賑わっています。

次に見えてきたのは黄色の派手な色が目印のホリデイイン・サラエボホテル。ただの世界チェーンのホテルの一つなのですが ・・・ 独立紛争の際には世界的に有名になったホテルです。先ず、このホテルの前の通りの名前を知る必要があります。人呼んで“スナイパー通り”。紛争の最中、この通り沿いの建物は殆どセルビア人勢力に牛耳られ、多くのスナイパーが配置されていました。そして、この通りを通る人は軍人や民間人、老若男女を問わず、全ての人がスナイパーの標的となったのです。紛争は“民族浄化”という、救いようのない愚かな蛮行を兼ねていたので、数多くの民間人も犠牲になったそうです。

この紛争の最中、世界中のジャーナリスト達が命懸けでここサラエボに滞在していたのですが、そのジャーナリスト達を匿って寝所を提供していたのが、このホリデイイン・サラエボホテルなのです。気分が重~くなりましたが、今夜からはサラエボ市内のホテルで2連泊です。

【3日目】 サラエボ「Times of Misfortune(不幸) Tour」参加

翌日は、紛争のことをもっと学びたい ・・・ ということで地元の会社が催行している「Times of Misfortune(不幸) Tour」に参加しました。米国人やスイス人等、一行11名を地元ガイドのArminさんが英語で案内してくれます。

先ずは高台に登って、紛争中にサラエボがどのように包囲されたかを案内してくれます。

1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、これを阻止しようとするセルビア人勢力は領土内のセルビア人を保護する名目で“スルプスカ共和国”の樹立を宣言、この共和国軍にユーゴスラビア軍(セルビア人勢力)が加勢してサラエボを包囲し、4年間に渡り攻撃を続けることとなりました。この争いでは約12,000人が死亡、約50,000人が負傷したと言われています。そして何とも痛ましいのは、その犠牲者の数の約8割が民間人だったということです。包囲されてしまったサラエボ市民は生存するために“サラエボトンネル”といわれるトンネルを掘り、市外の援助勢力から食糧や医療品、生活必需品を調達しました。また、時にはこのトンネルを使って脱出を試みたりしたそうです。

今では、当時のこのトンネルを紹介する目的でトンネル博物館として一般公開されています。トンネルの内部見学も可能ですし、紛争当時の市内の写真なども見ることができます。

民族や宗教が複雑に絡み合い、そして憎しみが憎しみを生むという最悪の結果を見学することになりました。重~い気持ちを引きずって、サラエボでもう1泊です。

【4日目】 サラエボ⇒クロアチア ドブロブニクへ移動 観光

翌朝は高速バスで隣国クロアチアのドブロブニクへ移動です。所要約6時間半、距離にして大凡
250kmの移動となります。地図をよ~く見ると分かるのですが、ドブロブニクはクロアチア本国とはボスニア・ヘルツェゴビナの領土を挟んで、分け隔てられた“飛び地”に位置しています。

ということで、移動の途中国境で3回の出入国審査があります。その度に審査官が乗車して来て乗客全員のID(パスポート類)をチェック、審査官に指示された乗客は降車のうえ、窓口で並ばなければなりません。

ただ、私の場合は「Japanese?」と聞かれただけで何の質問も無く、車内で座ったままスタンプを押してくれました。さすが“世界最強のパスポート”信用度抜群ですネ!? 日本人であることに、さらに誇りを感じた経験でした!

これから入国するクロアチアですが面積は我が故郷九州の約1.5倍、人口は約410万人、通貨はクーナ、というお国です。

さて、やってきましたドブロブニク。別名“アドリア海の真珠”なんともお洒落な名前ですネ! 私のようなオッさんには“豚に真珠”で似つかわしくないような気もしたんですが、いゃいゃ、ホントにお洒落な街です。

古来より自由と自治を守るために城壁が築かれ、その城壁の内部の旧市街は1979年に世界遺産に登録されています。但し、ご多分にもれず内紛で爆撃を受け、街の至る所が破壊されズタズタにされてしまいます。終戦後、住民達の必死の努力により、その美しい街並み(アドリア海の真珠)が復活しました。早速、その美しい旧市街を巡ってみます。

城壁の高さ(平均)は24mもあり、その上は周囲1,980mの歩道になっています。写真撮影をしながら約1時間掛けて一周しましたが、美しいレンガ色の街並みと真っ青なアドリア海のコントラストがなんとも素晴らしいものでした。

次は城壁の内部の旧市街観光です。旧市街地区は原則車両乗り入れ禁止なので全て徒歩での移動となります。狭い路地が張り巡らされ迷路のようですが、なんとも言えない雰囲気が醸し出されています。歩き尽くし、途中ビールを2杯飲みながらの観光となりました。

仕上げはこの美しい旧市街を上から見てみよう、ということで近くのスルジ山に登ります。
標高421m、ロープウェイで僅か5分の道のりです。頂上からの景色は壮観で、あのノーベル文学賞受賞作家バーナードショーが「ドブロブニクを見ずして天国を語るなかれ」と言った気持ちが理解できた気がします。

今回訪れた旧ユーゴスラビアの国々の物価は比較的安いので助かっているのですが、ここクロアチアのドブロブニクは有名な観光地ということもあり物価が高く、私(経済的に弱い)旅のアドバイザーにとっては少々辛い部分があります。

なので、宿泊も1泊だけと少々物足りない感が残ってしまいました ・・・ 。

【5日目】 ドブロブニク⇒ドイツ ミュンヘンへ

翌朝は、LH(ルフトハンザ航空)便でドイツのミュンヘンへ飛んで1泊となります。ドブロブニクから飛行時間約1時間半、ドイツ第3の都市ミュンヘンへ到着です。

ミュンヘン空港は敷地内にショッピングモールまである、巨大で斬新な空港です!
また、ご存知のようにドイツはドブロブニク以上に物価が高いところなのでHauptbahnhof(中央)駅前の格安ホテルでおとなしく眠りに就くのみ、食事は勿論近くの食料品店で「Mitnehmen Bitte(持ち帰りお願いします)!」。

6日目】ICE高速列車でフランクフルト空港⇒日本へ

翌朝はDB(ドイツ国鉄)が誇る“ICE(高速列車)”でフランクフルト空港まで移動します。割引で1等席を確保できたので、ミュンヘン駅のラウンジで有名なミュンヘンのvom fass(生ビール)を堪能できました。

ICEは最高速度約200km、所要約3時間40分でフランクフルト空港に到着です。よく日本の新幹線と比較されるICEですが、スピード、乗り心地、全て新幹線の勝ち!という印象でした。唯一、新幹線には無い食堂車が魅力的でした。

さて、今回の旅もほぼ終わり ・・・ 後は“日の丸の翼”JAL(日本航空)で成田へ向けて帰国するのみ。所要約11時間20分、帰路便で特筆することはありませんが、機内ビデオで“懐かしの名勝負”をやっていて、なんと1974年3月に蔵前国技館で行われた“アントニオ猪木vsストロング小林”の一戦を観ることができました。生放送で観た学生時代を思い出しながら、この試合の決め技で後に“伝説”といわれた猪木の“ジャーマンスープレックスフォールド”に一人興奮し、叫び声を上げてしまいました(アホか?)。

旧ユーゴスラビアの国々を巡った今回の旅、いかがだったでしょうか? 今回はほぼ「紛争の歴史を知る旅」となりました。
いろいろな要素が絡み合っているのですが、特に“民族”と“宗教”の問題が大きいですネ? あとは“利益(金)”を加えるとして、地球上の争いごとは全てこの3つに起因していると、私旅のアドバイザーは考えます。

日本はホントに平和な国ですネ!? しかし、この平和は与えられるものでは無く、自ら勝ち取り、そして守り抜くものです ・・・ ! “平和ボケ”を解消して、皆で平和を享受し続けましょう!

今回もお付き合いいただき、誠に有難うございました!

2021.12.24

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