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【海外旅行体験記③】スタントラベルのWORLDブログ『太平洋の楽園パラオの旅』

  • 更新日:2021年12月24日
  • カテゴリ:体験レポート

「旅行期間=2017年11月7日(火)~11/13(月)」

皆さん、Alii(こんにちは)!

今回は、以前から行きたかった南太平洋の楽園“パラオ”です。
ただ、私、旅のアドバイザーもDeepなオッさんですし、マリンスポーツが目的というわけではありません。

今回の目的は、大東亜戦争最大の激戦地の一つであり、2015年に今上天皇と皇后が慰霊のために訪問された“ペリリュー島”に行くことです。ただし、ペリリュー島はかなりの僻地で、パラオの中心都市というべきコロールからも定期便は極めて少なく、現地発着の日帰りツアーに参加する以外は交通手段がありません。

その現地発着ツアーも最少催行人数が決まっているので催行される日を確認しつつ、且つ日本⇔パラオの航空便の空席も確認しつつ、ということで決行可能な日の選択が非常に困難です。試行錯誤していた2017年11月初旬、ついに航空便も空席があり、且つペリリュー島への現地発着ツアーも催行確定という旅程を見つけました。職場の相棒(いつもお世話になってます)のFさんに「悪いけど、来週パラオへ行くのでヨロシク!」と突然の依頼をし、家人にも同様の旨を伝えていざ出発!日本⇔パラオ間には成田発着の直行便もありますが、高くて発着時間もいまいち、直行便以外ではグァム経由が一般的ですが、グァムで往復共一旦入国手続きが必要で少々面倒くさい ・・・ ということで今回は関空発着、CI(中華航空)の台北経由で決まり!

関空→台北は約3時間半、次に台北(桃園)空港で乗り換えて約4時間。機内食を2回食べて、ビールもワインも飲んで快適な空の旅を満喫しているうちにパラオの表玄関コロール空港へ到着。到着寸前に見えてきたパラオ最大の街コロールは何ともコンパクトですが、青い海に囲まれた素敵な街並みです。

空港ターミナルも恐ろしいくらいコンパクト!迷う方が難しいくらいの大きさです。到着直後に早速発見!“世界一親日的な国”の面目躍如「このターミナルビルは日本の援助で建てられました」という看板です。その後、このような看板はいろんなところで目にしました。

ホテルまではタクシー(勿論日本車)で約20分。
今日から3泊お世話になる「Palacia Hotel」、やはり親日的な台湾資本のホテルです。街のど真ん中にあり、何かと非常に便利な立地です。私、旅のアドバイザーにとっての“良いホテル”の条件となる“トレーニングジム”と“ゲスト(コイン)ランドリー”も完備。この二つさえ備えていれば文句無し、いうのが私のホテル選びの信条です!

機内で(いつものように)かなり飲んだし、今夜は早めにベッドへ!

太平洋の南国、パラオってどんな国?

ここで、少々パラオについて紹介です。
日本の兵庫県のほぼ真南(約3,000km)に位置しているために日本との時差は無し、日本からの旅行客にとっては大変楽です。

面積は約480K㎡で日本の屋久島とほぼ同じ大きさ、大小586個の島々から成る島国に約2万人の人々が住んでいます。そして、何よりも印象的なのがパラオの国旗です。何と我が国の日章旗(日の丸)にそっくりではありませんか ・・・ !? いろんな説がありますが、日本への親しみ、憧れからこの国旗になったという説が有力です。そのパラオと日本との繋がりについて語るとなると長~い話しになりますが、掻い摘んで説明すると次のようになります。1885年~パラオはスペイン領東インドの一部でした。その後、1899年にスペインからドイツに売却され、第一次世界大戦でドイツが敗戦国になると、1914年~パリ講和会議により日本の委任統治領となりました。そして大東亜戦争が終わるまでの約30年間、パラオには南洋庁が置かれ多くの日本人が生活することとなったのです。ドイツの植民地時代にはインフラの整備は殆ど行われませんでしたが、日本の統治時代には水道や病院、学校等、多くの設備が整うこととなりました。学校では長い間日本語教育が行われたため、今でも数多くの日本語がそのまま、若しくは意訳されて使われていてビックリすることも!「エモンカケ(ハンガー)」「ダイジョーブ(大丈夫)」「アジダイジョーブ(美味しい)」「ツカレナオス(ビールを飲む)」等など ・・・、中には思わずクスッと笑ってしまうものもありますネ!? 名前もそうです! 前大統領の名前は何と「ナカムラ クニオ」、日本への親しみや憧れから、現在でも日本人の名前を名乗っている人も数多くいます。

因みにホテルのスタッフで、今回いろいろとお世話になったご婦人の名前を聞くと何と「KINUE」さん、ビックリです!

セスナ機で遊覧飛行

翌朝、目覚めると実に美しい朝焼けに続き、真っ青な青空が!

ケチな旅のアドバイザーでも心が動きます ・・・ 上空からこの美しい景色を観てみたい、ということでホテルのフロントのKINUEさんにお願いして、何とかセスナ遊覧飛行の予約を取ってもらいました。

恐ろしく小さい(4人乗り)のセスナ機。ただでさえ少々怖いのですが、追加料金で片方のドアを外して飛行してくれるとのこと、小心者の私は即遠慮しましたが、同乗したドイツ人夫婦の奥さんがTRY!万国共通、女性は逞しいですネ!因みにご主人は後方席でビビってました。


景色はご覧のとおり、息をのむほどの美しさでした。有名な“セブンティアイランズ”もバッチリ見えました。

ケチで優柔不断な旅のアドバイザーも納得の遊覧飛行でした!

“ペリリュー島”ツアー

そして翌日、今回の旅の最大の目的である“ペリリュー島”ツアーです。私と埼玉県在住のご夫婦の計3人でのツアーです。

出発地の桟橋で高速船(というか、釣り用のモーターボート)に乗船して約50km南に位置するペリリュー島へ。出発時は生憎の大雨、しかもボートは時速50km以上の猛スピードで走るため、雨粒で顔面が痛いのなんのって、思わず船長に「顔が痛い、何とかしてくれ!」と文句を言うと、すかさず「後ろを向け!」と怒鳴られましたが、なるほど“グッドアイディア”!約1時間後ろを向いて乗船、確かに顔の痛さの苦痛からは逃れられました。

ペリリュー島に到着すると、ウソのような青空!私、旅のアドバイザーは日頃の素行は良くないのですが、そう!実に“晴れ男”なのです。桟橋ではガイド兼運転手のガドウィンさんが待っていてくれました。

英語とパラオ風日本語のミックスでの案内で、けっこう笑えます!

桟橋横で立派なマイクロバスを発見しましたが、何とこれは2015年に今上天皇と皇后が来られた際に乗車された車だそうです。私達も同じ車かな、と思ったところ、隣りにあった少々ボロいワゴン車に乗れ、とのことです。

先ずは日本人慰霊碑。戦いの犠牲になった方々のお墓や慰霊塔が並んでいます。中には旧兵士のヘルメットや手榴弾も!

丁重にお参りし、次の訪問箇所「ペリリュー第2次世界大戦記念博物館」へ。
ここでは旧日本軍兵士が使っていた兵器や旭日旗、衣料品等とならび、対戦相手であった米軍の同様のもの等も展示されています。

次に訪れたのは「旧日本軍司令部跡」。一目でわかる頑丈な建物で、お風呂やトイレ(パラオ語ではベンジョ)も残っています。今でも建物の骨格はしっかりしていて、ごく稀に台風が来たときは今でも島民の避難場所になっているそうです。

次の記念碑に移動する途中でも、いろいろなものが目に入ってきます。

墜落した零戦(ゼロ戦)の機体や実際に使われていた戦車、大砲、塹壕等なども ・・・こんな酷暑、そして衛生状態の悪い中、本当によく戦ったものだと思います。

そして有名な「オレンジビーチ」。莫大な戦力を持って米軍が上陸作戦を行ったところです。名前の由来は確かではないのですが、おびただしい量の血が流れ、当時は海がオレンジ色に染まっていたそうで、この名前がついたそうです。今ではホントに穏やかで、南国の楽園そのものの景色ですが、当時のことを思うと手を合わさずにはいられません。重~い気分ではありますが、次はランチタイム。

今日のランチは“ベントウ”です。ペリリュー島では用意できないのでコロールからクールボックスに入れて持って来たとのことです。

場所は2015年、天皇皇后両陛下が慰霊に来られたときに、ご休憩用に建てられて建物の前の広場です。完全に日本風のベントウを美味しくいただきました。

ランチ後、訪れたのはペリリュー神社。

天皇皇后両陛下がここで詠まれた句が神社の両脇の碑に刻まれています。どうしてもここペリリュー島でお参りをしたい、と望まれた今上陛下、そしてお伴をされた皇后様のお気持ちが滲みでている句でありました。

そして最後に訪れたのが「1000 Cave(千人洞窟)」千人は大袈裟かもしれませんが、当時多くの日本兵が潜んでいた洞窟です。生活の跡も生々しく、飲み干されたビール瓶等も残っていました。

大東亜戦争の中でも最も激しい戦いだったとされる「ペリリュー島」の戦い。
実際はどのようなものだったのでしょうか?

米軍は人数では日本軍の兵力の約4倍、航空機の数約200倍、戦車10倍、重火砲約100倍の戦力を持っていました。当初米軍は数日程度でこのペリリュー島を落とせると考えていたそうです。ところが、実際には73日間に渡って死闘が繰り広げられたのです。日本軍は本当に勇敢に戦ったそうで、米軍の本国への報告書にも恐るべきとも言える表現で、その日本軍の勇敢さが綴られています。

両軍の被害はというと ・・・ 米軍の戦死者1,794人に対して、日本軍の戦死者10,695人。本当に多くの血が流れてしまいました。戦争とは悲惨なもので、絶対に、二度と繰り返してはなりません。ただ、この戦死者の数ですが、我々日本人が言い伝えていかなければならない数字が残っています。このペリリュー島の激戦での地元の一般人の死者・負傷者の数は0(ゼロ)です。何故か ・・・ ここペリリュー島を決戦の地と決めた日本軍は島の住民に被害が及ばないように全員をコロール島に避難させたのです。ただ「日本人として、日本軍として米軍と戦いたい!」と数多くの島民が申し出たそうです。その島民達に向かって、当時守備隊長だった中川州男(ナカガワクニオ)は「貴様ら土人と一緒になんか戦えるか。帰れ!」と怒鳴って追い返したそうです。そして島民が島を離れる日、日本兵達は桟橋に見送りにも来ず、島民達は「日本軍に裏切られた」と悲しんだそうです。しかし ・・・ 船が沖に出ると多くの日本兵達が崖から手を振り、歌って島民達の無事を祈りつつ、見送ったそうです。そうです、中川隊長は島民の命を守るために、敢えて一緒に戦いたいという島民達を怒鳴って追い返したのです。日本軍本部からもペリリュー島民を戦火に巻き込んではならない、という厳命が下っていたそうです。

戦後、自国の兵士の遺体のみを葬る米軍兵士を横に、島民達は日本軍兵士の遺骸の脇で泣き、そして丁重に葬ってくれたとのことです。そして戦後約70年が経ち、両陛下がここペリリュー島を慰霊のために訪問されました。このことは地元の人々にとっても記念すべき一大事で、訪問された4月9日は現在ペリリュー州の祝日になっています。あ

以上は決して作り話しではなく、ペリリュー島島民の記録に残っていますし、ガドウィンさんから直接聞いた話しです。あ戦争を美化するつもりは毛頭ありません。戦争とは忌み嫌わなければならないし、二度と起こしてはならないものです。ただ、戦前の日本を全て否定する人が多くいますが、私達日本人の先人達が世界中で行ってきた勇気ある言動、そして、それに対する各国からの感謝の意、これらも直視する必要があると思います!

以上、重~い話しに付きあっていただき、誠に有難うございます。

最後にコロールで1泊した翌日、多分世界一高い出国税(US$50)を払って、中華航空の便でMRTも開業したチョー近代的な桃園空港を経由(パラオとのギャップがデカ過ぎ)して帰国の途に付きました。余談ですが、日本でも出国税(一人千円を予定)新設についての議論の真っ最中ですが、一人千円なんて世界の常識からみれば微々たる額だと思っています! 即実行されてはいかが!?

今回もどうも有難うございました。これで計83ヶ国訪問しました!次は何処へ行こう

2021.12.24

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